東京大空襲
 私の父は昭和一桁生まれでして、東京の外れにずっと在住しておりました。 当然戦争時代を潜り抜けてきた人のわけですが、戦争中の思い出はかなり生々しいものでした。 父の友人Aさんは学校で設置してあった太鼓を思い切り叩いて破ってしまった時、 飛んできた教師が怒ってばちで何度もAさんを殴りつけ、それを見ていた父は、血色を失くし、 意識も失くして行くAさんの姿に死んでしまうのではと思ったそうです。 当時の体罰はそんなに珍しい事ではなかったと思いますが、それでも父はそう言っていました。 今だったら大変な事ですよね。 昼のお弁当も持ってくる人と来れない人とさまざまで、友人Bさんはお弁当を持参するのですが、 蓋を空けると一面真っ赤。家の周り中に元気に育ってる唐辛子をふりかけの様にかけて持ってくるのだそうで、 とにかく辛くて誰も食べられなかったと言っていました。  終戦が近づくと今でもよくテレビで学徒動員の光景が流れます。当時父は高校生でした。 祖父は生活の担い手として働いていた父を戦争で持っていかれたくないが為に高校に進学させた様です。 父はあの時、あの場にいたんだそうです。そして確か私の聞いた記憶ではその後だったと思うのですが、 帰り道で激しい空襲に遭い、あちこちで惨劇が起きていたと言います。人々が「防空壕へ行け!!」と叫び、 防空壕に逃げ込んだ所を爆弾が投下されたり、友人が吹飛ばされたり (木にぶら下がって大した事なく済んだそうですが)・・・。 当時は空襲があった時には眼球と鼓膜を守るため、指で目と耳を押さえろ(画像参照)と言われ、 父もそうしたのですが、爆風には全然意味がなく、押さえた指で顔を引っかいて怪我したと言っていました。 僅か1m程の位置の違いで父が助かり、そばにいた人は死んだと言う微妙な生死のラインもあったそうです。 空襲の後は当然交通はマヒしているので線路の上を歩いて日比谷から帰ったそうです。 距離にしておおよそ30キロ位ではないかと思います。  父は広島や長崎の原爆の放送を見る度に言いました。
「東京大空襲だってひどかったのにどうして取り上げてくれないんだろう」
当然戦争体験者は日を追う毎に減少していきます。私にしても貴重な経験を話してくれた父はいない為、 母に確認をとりながらの作業になってしまいますが、出来るだけ残していかなくてはいけない話だと思っています。 今後も戦争体験者の話として取り上げて掲載して行きます。 (注:2008年になって東京大空襲の特集番組が続きましたので、別のページにて取り上げました)
2003/04/15

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