終戦後 |
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父の戦争体験記録・終戦後の話です。 食 料 郊外とは言え東京在住の父は、戦後の食糧難に遭い、配給を受けていました。配給はかなり大雑把な配給の仕方だったようです。米軍から家族人数に合わせて支給されるので、同じ物を暫く食べ続ける事になり、口に合わない初めての食べ物などは捨ててしまう事もあったそうです。野坂昭如著「アメリカひじき」の、紅茶をひじきだと思って調理して食べたらまずかったと言う話と同様です。バターは食べ方が判らず、天婦羅油に使って食べたら、最初のうちは美味しくてバクバク食べていたけれど、だんだん胸焼けしてうんざりして捨てたとか、チーズは腐ってると思って捨てたとか。とにかく一度の配給で一週間分を貰うので、慣れない食べ物はどうしても最後まで食べきれずに捨てる事が多かったようです。 父の家では鶏を育てていたので、たまにご馳走と言うと鶏を料理にしていたと言いますが、その名残りで我が家では家で飼っていた鶏が食卓に出た事がシバシバ。絶対にその作業は私達には見せませんでしたけど、匂は今でも記憶しています。悪ガキだった父は米軍絡みの何処からか暗闇に紛れて缶詰を取ってきて食べ、次の日空き缶を見たら犬の絵が描いてあった(つまりドッグフード)とか(笑)。母は東京出身ではないので、祖母が食べ物を闇市で売る立場だったそうですが、東京はやはり食糧事情はかなり悪かった様です。 煙 草 父は結構若い頃から吸っていましたが、当然煙草も手に入りにくい訳で、家に生えてた木でいろいろ試したそうです。植木屋でしたから試すだけの種類の木はあったと思います。ただ私がこの話で記憶しているのは「紫陽花の葉で作った煙草はきつくて不味くてダメだった」と言う話だけで、そこそこ吸えた物もあったと言っていたと思うのですが、何だったかは覚えてません。 軍 人 終戦直後、米軍から空から女性には口紅、男性にはライターをプレゼントされたそうですが、最初のうちは「使ったら爆発するぞ」などと言う人もいて、父の様に気にせずに平気で使う人も珍しかった様です。米兵は比較的友好的な人が多く、「ぎぶみーちょこれーと」を父もやっていた様です。ただソビエト(当時)兵にはいい印象がなかったらしく、私が話を聞いた頃でも友好的な気分にはなれなかったようです。全てがソビエト兵ではなかったでしょうが、電車の中で女性に乱暴する者、電車から外にいる人に向けて小便する者、通りすがっただけで殴り飛ばす者など、横暴極まりない兵士も多く、それを止めに入れば、下手すると殺されてしまうので、周りは何も出来なかったと言います。森村誠一著「人間の証明」にもそんなシーンがありましたけど、もろアレです。父の友人もただ通りすがっただけなのに、いきなり殴られてしまいました。その事に怒った父は、真正面から向えば捕まってしまうか、それこそ殺されかねないので、角棒を持って先回りし、暗闇に待ち伏せして、その兵士を思い切り殴りつけて逃げたそうです。その後、GHQが犯人捜して走り回ってたらしいですけど。父は昔気質の悪ガキだったので、正義感は強かったですし、喧嘩も強かったですから、仇討ちは見事に成功したようです。 日本が戦争をしたのは明治政府からの流れと指摘する人がいます。必ずしも当てはまらないとは思いますが、幕末からの日本が内戦から世界大戦へと向った事は事実だと思います。やっと世界に目が向いたばかりの小さな島国が、その浅い世界観で大国を敗れると信じていた事は、今の私から見れば滑稽な限りです。私の父は戦争に参加する寸前に終戦になっただけなので、あと数年早い生まれであれば、戦地にも行ったはずでしょうから、決して「非国民」ではありませんでしたが、おかしい事はおかしいと正直に思っていたようです。いまにして思えば私もそんな父と似ているかもしれません。大きく全体の流れに逆らう様な事もしませんが、その中で変だと思う事は結構反発する事が多いので、父の精神を受継いでいるのかもしれません。それは私にとって誇りに思える精神なので、更に磨きをかけていきたいと思います。 |
2007年06月12日 |