日本航空123便墜落事故
 映画「クライマーズ・ハイ」が2008年7月5日に封切となった。映画の内容は日本航空123便墜落事故にまつわる地元記者達の葛藤が描かれていて、事故そのものを取り上げている内容ではない。当時の事を思い出しているうちに、いろいろと調べたくなった。調べているうちに当時以上に情報が入り、また私自身年齢を経た分少しは人間が深まったらしく、当時の事を鮮明に思い出すにつれ、考えさせられる事が多くなった。

事故についてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「日本航空123便墜落事故」を観て頂いた方が詳細が解ります。

1985年8月12日、あの日天気が良かったのはよく覚えていて、事故の報道を聞いた兄がぼそっと「もうだめだろうな」と言ったのが印象に残っています。その後テレビは頻繁に臨時ニュース等で報道し、情報が混乱していた記憶もあります。次の日になって現場が映し出されるとまだ残る煙に墜落の無情さを感じ、生存者が見つかった時は喜び、事故記事を取り上げた雑誌を買って観た時には、余りに凄まじく生々しい写真の数々の衝撃は今でも忘れていません。調べて行くうちにいまだに結論を得ない論争も数々ある事を知りました。専門的な事は全く解りませんし、何が正しいとか、悪いと言った事はもっと解りません。ただ調べて行く中でボイス・レコーダーを元にシュミレーションを公開しているサイト及びフラッシュを見つけました。


JAL123 Forever

マイクロソフト・フライトシミュレーターで飛行機の様子を再現
(「JAL123 Forever」押火様よりリンク許可を頂きました)


これを何度も聞いているうちに機内にいた人達が、最後まで如何に必死であったかを痛感しました。機長らは最期まで諦めず言う事を聞かない飛行機を32分も飛ばし続けていた事、客室乗務員は常に冷静に対応していた事、搭乗者の中にも人を想いやって手助けした人がいて、勇気付けていた人もいた事。操縦士だったか機長だったかは、操縦桿を握ったままだったと聞いた記憶がある。機長は僅かな遺骨しか残らなかったと言う話を聞けば、それが真実かどうかは解らないけれど、私にはそれが真実であった様に思える。
今生きている者として、遺族の方々に安易に言葉はかけられないし、責任問題を追及する事も出来かねる第三者的な立場であるけれど、唯一できる事はこの事故からいっぱい学んで自分自身に取り入れる事。飛行機は操縦出来ないけれど車は運転するし、究極の時に自分が冷静に何処まで人を想って行動出来るかはとても重要。いざと言う時に自分さえ良ければ良いと言う考えが働けば、喩え助かっても後は不幸になる。万が一そう言う事が起きても、自分を見失わないだけの強さを身に着けておきたい。それはきっとこう言う大事故ではなくても役に立つ事が多いのだから。私はこれをもって教訓としたい。

事故に遭っても尚人を想う心を忘れなかった方々に心から敬意を表すると共に、改めてご冥福を心からお祈りさせて頂きます。
2008年08月07日

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