近藤勇の墓
 2005年の夏、新撰組絡みの史跡をひたすら巡ってきました。第一弾は近藤勇の墓をUP。

 近藤勇に関しては様々な言われ方をしてるけれど、私のイメージは雄ライオンの様な人。 普段はどんなであってもいざと言う時にはしっかりと立ち上がる・・・。 多摩の農家に生まれあそこまで昇りつめたんだしね。墓は全部で6つ位あるらしい。 今回はそのうちの3箇所行って来ました。

調布・龍源寺
板橋で処刑された勇の首のない遺体を親族が掘り出してここまで運んで埋葬したとか…。現代人の私としてはそれってかなり恐いんですけどね。当時の人は平気だったんですねぇ。生々しい談話も残ってるし、実際そうだと思うし。 幾つか並んでますが、勇の墓には矢印をつけときました。龍源寺は三鷹ですが、歩いて5分もかからない所に生家があります。

会津・天寧寺
会津で処刑を聞いた土方歳三が天寧寺に建てた墓。京都で行方不明になった首が埋葬されたとかされてないとか…。
龍源寺の墓 天寧寺の墓


板橋・寿徳寺境外墓地
永倉新八が立てた近藤・土方之墓(両雄の碑)の横に小さな墓石がある。
ここは元々板橋刑場で刑死した人の埋葬地だったらしい。小さな墓は多分当時その為に建てた墓。改修工事の時に胴体の遺骨が見つかったとも言う。ただここは近藤勇だけが埋葬されてる訳ではないから骨は幾らでも出てくる様な気はする。そう言えば宮川勇五郎の談としてこんな一節がある。「『ただここにある死骸は、皆首がないのだから他人の死骸と真違わないように』と頻りに、この首のない勇を改めました(子母澤寛「新選組遺聞」より)」
やっぱり身体は龍源寺かな…と思う私。

板橋・寿徳寺境外墓地
永倉新八が松本良順の協力を得て建立した近藤・土方之墓(両雄の碑)。建立当時はまだ新選組を顕彰する事は許されなかったらしい。その中でこれだけ立派な墓を建てたと言うのは、生き残った者としての意地だったのかもしれない。
他の隊士の名も100余名が石碑の側面に刻まれているが、だいぶ剥落してきて読めないのも…。
板橋墓所 板橋墓所


岡崎市・法蔵寺 岡崎市・法蔵寺
岡崎市・法蔵寺にある首塚。何でも京都で晒された首を同志が3日目に持ち去り、厚意にしていた称空義天大和尚に埋葬を依頼しようと思った所、和尚が法蔵寺の貫首に転任していたので、ここに埋葬されたんだとか。こう書かれているとそうなのかなと思ってしまう単純な私です。(追記)

新撰組、こと近藤勇に対する見方は賛否両論あるけど、しょーもんない人ならこんなにあちこちに墓は出来ないでしょう。 そう考えればやっぱり歴史に名が残るだけの事はした人なんだと思う私でございます。

大河ドラマを観ていて、私の頭にはなかったものを意識する様になった。
えーぇ、私も生粋の「多摩」の人間でございますよ。
2005/09/11(追記2007/02/19)
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