隊士の墓・碑 | |
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?斎藤一の墓 三番組組長・斎藤一は何度も名前を変えながら、最終松平容保から授かった藤田姓を名乗り、会津人・藤田五郎として生きた。その墓は数多くの会津戦没者の眠る阿弥陀寺にある。 人を切るのが好きとかいろいろ言われているけれど、共通して出てくるのは実に義理堅い人だと言う事。最期まで黙して語らずの姿は松平容保と同じ。何度も名前を変え、場所を変え…とした斉藤一にとって、きっと安住の場所を見つけたのかもしれない。 永倉新八の墓 二番組組長・永倉新八は大正の時代まで生き、小樽で最期を迎えた。墓は札幌・小樽にもあるが、本人の希望で板橋に建立した近藤・土方の墓(両雄の碑)の下にも分骨された墓が置かれた。 かなりでかい墓石で碑のよう。近藤勇に反発して離隊した人が、後に立派な墓を建てた…と言うのがどうもピンと来ないのだが、いろいろ語られている中、どんな想いが交錯していたのだろう。永倉新八が残した「浪士文久報告記事」と「新撰組顛末記」の中に、数多くの真実と事実があるけれど、隠した真実と事実もあったはず。本当の所は推測の域を超えないが、絆はそれだけ深かったと思いたい。 井上源三郎の碑 六番組組長・井上源三郎は実に地味でコツコツと努力する人だったらしい。鳥羽伏見の戦いで倒れ、甥の泰助が頚と刀を持って行こうとしたが、重さに断念し、寺の門前の田んぼに穴を掘って埋めたと言う。碑は墓と同様、日野・宝泉寺にある。墓は井上家の墓となっていて、余りに普通のお墓だったので撮るのはやめた。 |
2006/05/16 |