甲州勝沼の戦い | |
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慶応4年2月30日、梶橋屯所を出立。 行ってないのでまだ画像はありませんが、今後の為にスペース確保です(オイ)。 |
慶応4年2月30日、内藤新宿で矢島内記の手の者100人と合流、宿陣。 行った事はあるけど画像はないので、ここもスペース確保(オイ)。 |
慶応4年3月1日、上石原宿。 大歓待を受けて足止めした上石原宿・西光寺。地元の人達にとってはヒーロー的存在であったろう近藤勇を、 最大に歓待したい気持ちも判らなくはないし、きっと近藤勇もこれが最初で最後だと思って素直に歓待されたのではなかろうか。 |
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慶応4年3月1日、府中・宿陣。 府中は身近過ぎて写真撮ろうとか感覚がなかったので、意外と少ないです。撮ったはずなんですけど見つからなかったので見つけ次第と言う事で。 |
慶応4年3月2日、日野宿。 泊まってはいないけれどここでも大歓待されて足止めされた。まぁそうでしょうね・・・。 |
慶応4年3月3日、猿橋・宿陣。 先陣は大月まで行ったらしいが、後陣は猿橋泊まり。帰りはこの橋を壊そうとした部隊に対して、佐藤彦五郎が地元の人達の事を考えて止めたとか。貴重な橋が今に見る事が出来るのは彦五郎さんのお陰と言う訳です。 |
慶応4年3月3日、悪天候の中進軍。 甲州街道最大の難所の入り口はここです。現在の甲州街道の笹子トンネル手前に旧道に入る道があります。雪だったらしい…。 |
笹子峠の旧街道は明治時代に整備されたものだそうです。当時の旧街道は現在遊歩道になっていますが、鬱蒼としていて歩いたら葉っぱで足傷だらけになりそうな雰囲気。新選組が通った時は雪が積もってたらしくて、寒いわ道はぐちゃぐちゃわで、おまけに武装していたのだからさぞかし大変だったろうなぁと思ったり。 |
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慶応4年3月4日、駒飼宿・宿陣。土方が援軍を求めて折り返した所。 面影はないですが、建物や道路が整備されているだけで、きっとそんなに大きく町並みは変わってないのではと言う気が…。 | 隊士は笹子峠越え等で脱落した者は大勢いた様ですが、それでも120名はいたのでここでは泊まりきれずに、 分宿したと考えられているらしいです。 |
甲陽鎮撫隊として甲州・勝沼の戦いの激戦地になった場所。 一面がぶどう畑で、奥深い所なら掘ったら弾の一つや二つ出てくるのではあるまいかと言う感じ。 |
偶然これを見つけてココと判った。東神願沢鳥居があった場所でもある。 この像を見て、会津・飯盛山にある白虎隊の像に似てると思ったのは私だけだろうか。妙にまるまっちくって可愛いし。 |
布陣しようとして近藤勇が止めさせたと言う大善寺。 錦絵にはここで戦う姿があるけど実際はここまで来てないとか。確かに柏尾古戦場はちょっと手前の位置。 |
会津藩士・柴田八郎の墓。 許可を得てないので勝手に入る訳にはいかないけど、どうしても後ろの石が撮りたくて、獣避けの電線に用心しつつ撮らせて頂きました。 |
関田さん、勝手に撮ってごめんなさい。沖田総司が日野宿までしか行けなかったので、その後に一時静養した場所。 宿陣した場所は全部訪ねてないので、また行くようかなと思いつつ、何時でも行ける場所でもあるので、その時はまたアップします。 笹子峠が一番らしかったので楽しかったかな。それでも明治に整備された道らしいですけど。 |
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2006/05/16(更新:2007/09/21) |